母は満州からの引揚者。残留孤児の一歩手前だった。

80年代後半からつるんで暴れ出した半ぐれ集団「怒羅権」は、中国残留孤児の2世、3世。文春で、彼らが犯した暴力について、聞き取り記事が出ていた。暴力は恐怖なので、深くは読みこんでないけれど、別記事でバックグラウンドが書かれていたのを読んで、彼らは「かもしれない」隣人だった、と思った。

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私の母は、先の大戦で負けてから満州から引き揚げてきた。もう75年ほど前のこと。2歳か3歳で、今の子たちより足は丈夫だったかもしれないが、屋根の無い列車に乗るまで歩いたという。10日だったかもしれない。1か月だったかもしれない。とにかく長く歩いて、しゃがみこむと父親に「おいていくぞ」と怒鳴られた。兄妹が多く乳児もいたので親は構っていられなかった。近所のお姉さんが手を引いてくれた。道端には、親とはぐれた子どもたちがしゃがんでいた。「もし、おねえさんに手を離されたら、私は日本に帰ってこれなかった」残留孤児のテレビ番組を見ると母はよく涙を流した。

満州国は、日本が支配していた。母たちは、何軒か集まった家を囲む門番がいるような家で暮らしていた。日本が負けて1年ほど、その地に留め置かれた。ソ連軍がやってきて、男たちは連れて行かれた。祖父は軍属だったので、その情報を早く仕入れて、知人の家の屋根に隠れたという。「色々問題のあるおじいちゃんだったけど。もし男手がなかったら、家族は日本に帰ってこれなかったかもしれない」伯母がそう言っていた。

家を出るとすぐに、知り合いだった中国人たちが、家の中のものを持ち出した。日本人が中国を支配していたのが、ひっくり返ったのだから、強奪や乱暴も当たり前にあったという。母の手を引いてくれたお姉さんは、髪を切って顔を黒く墨で塗っていた。一緒に歩いていた女の人たちは、一様に顔に墨を塗っていたという。

朝鮮半島のどこかの港から、GHQが出した船に乗って帰ってきた。その船がGHQが出した最後の便だったそうだ。船の中の衛生状態は最悪で、赤痢が発生したという。佐世保の港が見えるのに、船は沖に留め置かれた。その間、1つ下の妹が、「お肉が食べたい」と言って死んだ。

関東軍の家族、銀行の家族は終戦前にさっさと引き揚げた、私たちはいつまでも動けなかった、もっと早く帰れたら、妹も死ななくてすんだかもしれない」

母は恨み言をいいながらテレビを見た。それでも、母は満州の首都のハルピンからの引き揚げだった。もっと奥地に入植した満蒙開拓団の人たちは、もっとずっと過酷だったそうだ。開拓団の中で亡くなった人は約8万人と言われている。

そんなこともあって、母は「国のことは信じていない。どうせ何かあったら自分たちなんか放り出される」優遇されている人を「上級国民」って言うんだって、と話すと「何を今さら」と鼻で笑う。「老害といわれた」と被害者面をした森元オリンピックの人を見て、「元気だねーどんないいもの食べて育ったんだろうね」と、どっこいしょと苦労しながら立ち上がった。もう杖なしでは歩けない

満州国が建国されたのは1932年だよ」と塾の生徒に教えながら、母は満州国から帰って来たんだ、と少しだけ話す。「へー、歴史の人なんだ、すごいね」と12歳の生徒たちはいう。私はもうアラフィフだ。そして、「怒羅権」の創設メンバーと同年代だ。