驚くほど世界は「健常者」のためにつくられている

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伊是名夏子さんが「JRで乗車拒否にあった」と記事を出された件で、批判が集まりました。その批判ムーブを受け、車椅子ユーザーのかわさきりょうたさんが当事者としての考えを記事にまとめています。その怒りの深さを、当事者ではないので共有はできなけれど、理解はできます。

おどろくほど、車椅子ユーザーに社会はやさしくないし、そのことに「健常者」は気づかない。私は、父の車椅子介助をして初めて知りました。かわさきさんの怒りの背景を、私の知っている限りで書きたいと思います。

 

父は、両目とも「網膜静脈塞栓症」で網膜を損傷し、ほぼ目が見えないという状態になりました。それでもまだ歩けるし、慣れた道ならと歩いていたのですが、ある日突然、家に一番近い信号の「音のシグナル」が鳴らなくなりました。「うるさい」と苦情があって、スクランブル交差点にしたことを機に、やめたのだそうです。鳴らなくなったことにしばらく経ってから気が付いて、どうやって渡っているの?と聞いたら、「人の気配で渡っている。人が動き出したら、自分も渡る」というので、あわてて外出には誰かがつきそう、いなければ家に居てもらう、という形にしました。

それでも、病院には連れて行かなければなりません。足腰や心臓が弱くなっていることもあり、休み休みで歩くには相当な時間がかかる。車椅子を利用することにしました。

はじめて、父を手押しの車椅子に乗せ移動したとき、こんなにも移動が大変なんだと初めて知りました。まず、5センチほどの段差でも、前から乗り上げることができない。いちいち後ろ向きにして、車輪を乗り上げさせなければなりません。そして、こうした段差は歩道のいたる所にあるのです!

後ろを向いて車椅子を上げていると、背後から自転車がやってきます。すれちがいざま「あぶないっ」といわれたり、舌打ちをされたりします。「すみません」と謝ります。

病院に着きます。待合室は狭いので、車椅子から降りてほしい、と勧められた椅子は丸椅子。目のせいでバランスが取れないから、普通の椅子にしてほしいと「すみません」とお願いします。父を連れて外出すると、なんだかすみません、すみません、ばかり言ってる感じ。私は時々でしたけど、これが毎日のことだったら?

私は、父を病院に連れて行く前に、どの道を通ったら段差が少ないか歩いて調べてみました。ほんの数百メートル先の病院に行くのに、小さいけれども乗り越えられない段差がこんなにあるのか、と私は初めて気が付きました。

手術した大学病院に行くためには電車に乗らなければいけません。けれども…最寄りの駅にはエレベーターがありません。いえ、駅構内にはエレベーターがあるのです。ただ、駅にたどりつくまでに1階分上がらなければならないのですが、階段とエスカレーターしかないのです!

父は、全く歩けなかったわけではないので、車椅子を折りたたんで、父の手を引いてエスカレーターを上がればいいのでしょうが。上りはそれでもいいのですが(いや、重いし危ないし正直むりむり)、下りのエスカレーターがないのです。危ないのは下りなのです。なぜ下りのエスカレーターがないのでしょう?

病院の最寄り駅にも、駅構内にエレベーターはあるのですが、下に降りるのには、階段しかありません。下へ降りるのに、階段しかない駅に敏感になりました。けっこうあるものなんですね。気が付きませんでした。

そんなわけで、電車での移動はあきらめました。タクシー移動は往復1万円近くかかります。10%の障害者割引はありますけど、スズメの涙です。仕方ないので、地元の眼科クリニックに差し戻してもらいました。

仕方ない、仕方ない。車いすに乗る人は、介助の手が十分にない人は、外出をこうして諦めていきます。だけど、これは、車椅子だけの問題ではないでしょう。さまざまな障がいを持つ人だけの問題でもないのです。

人は誰でも年をとります。年をとったら出来ないことも増えていきます。これは、「特別な人」の問題ではなく、私たち自身の問題なのです。