【追記しました】女はどこへ行った?「フェミニズム原則」

swashweb.net

共同声明「フェミニスト原則の再確認を呼びかける」を読みました。すっごいいいことが書いてある。賛同、超賛同。うんうん、で?女はどこへ行った。という話。

 

 トランスジェンダーインターセックス、そしてノンバイナリーの人々が他の多くの人々と共にあるための居場所を強化し、守ります。

 うんうん、わかる、大事だよね。

どんなグループの人々の人権も、他のグループの人権の犠牲の上に成り立つものではない、ということを確約します。

 そうそう、ほんと大事。私もそう思ってる。

フェミニストによる人権や社会的権利のための運動は、民主主義や基本的自由を脅かす脅威と闘い、そして人権や社会的正義、平等の原則のために、団結して立ち上がらなければなりません。

 まったくもってその通り。ブラーヴァ!!

と、首をがっくんがっくん揺らしながら読んでいったのですよ。ところが最後まで読んで思ったのは、

「で、女は?どこへ行った?」でした。

もう1度、戻って読んでみました。あれ?女特有の案件って「安全で、アクセスしやすく、合法的な中絶」

を認めるくらいしかなくない?たしかに家父長制に女の不平等はあるんだろうけどさ、家父長制が解決されても、女性の性的な安心安全とか残るよ?

歴史的にも、多くのフェミニストたちは、ジェンダーや性別、セクシュアリティの境界線を超えたすべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできました。

え?ちょっと待って?先輩たちは、「きつい」だの「こわい」だの「不満ばっかり」とか言われながら、女性の権利を人並みにしようと頑張ってきたんじゃないの?女だからものを言えない状況があって、女だから性的被害や犯罪にあって、そういう状況をなんだかんだケンカとかしながらも励まし合ってきたんじゃないの?フェミニズムはそういう運動だと思ってたんだけど、ちがうの、シスター?

【追記】「歴史的にも~すべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできた」といったら、まるで女性運動としてのフェミニズムがなかったってことになるよね?だって、もともとそんな崇高で広範な人権運動なんかじゃなかったじゃないですか。フェミニズムって。

 

じゃあ、「女に生まれたせいで」痴漢に遭ったのを我慢して、「女のくせに」って言われながら勉強して努力して、「女だから」って就職が決まらないで、決まったら好きでもない上司にお酌して、身体さわられて、「女だから」って家事やケアワークを押し付けられて、歯を食いしばって頑張ってきたのって何だったの?そういうしんどさから、「もっとはっきりと自分の言いたいこと言っていいんだよ!」と励ましてくれたのがフェミニズムだったんじゃないの?

 

私は、尊敬するフェミニストのユウコさんが言ってた

フェミニズムは不当な、性別によって理不尽な扱いに苦しんでいる人をencourageすること。励ますこと。」

これがフェミニズムだって信じてる。だから「フェミニズム原則」と考えることはほとんど同じ。なんだけど、

歴史的にも、多くのフェミニストたちは、ジェンダーや性別、セクシュアリティの境界線を超えたすべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできました。

ってこれは、なんだか裏切られたような気がするなあ。

 

【追記】ブコメありがとうございます。

addwisteria 感情的には女性運動としてのフェミニズムに光が当たっていないことへの違和感はわかるけど、宣言は原則にすら同調できないTERFやミサンドリストをパージする意図があり、だからこそ普遍性を殊更に強調してると思う。

 宣言にパージする意図がある、だから意図的に普遍性を強調している、と私もそう思います。今はアップデートしてる。宣言としてはそれでいい。でも、そのために「歴史的にも、多くのフェミニストたちは、ジェンダーや性別、セクシュアリティの境界線を超えたすべての人たちの人権のために立ち上がることを選んできました」といって、歴史から女性運動としてのフェミニズムを切り捨てるのはズルいと思いました。

 

ounce フェミニズムへの独占欲が綴られているように読める。「私たちのものと信じていたフェミニズムに、色んな人が後からただ乗りしてきた」と言いたげな、嫉妬にも近い感情。理解はできるが賛同はしない。

 

自分はフェミニズムの活動をしたり深く研究をすることもなく、貢献せずに恩恵を受けるばかりです。だからこそ、女性運動としてのフェミニズムを「なかったこと」にしてほしくないという強い気持ちがあります。

richest21 『女性による運動でここまで辿り着いたんだから女性にはもっと分け前よこせ』と言いたいの?あの共同宣言は「理想の社会」を訴えているのであって『過去に不遇だった分少し多めによこせ』という主張では無いのでは

女性による運動でここまで辿り着いたんだから「なかったことにするな」ですね。理想の社会を訴えていることに同意しますし、必要だと思います。

haha64 古い性役割は女性以外にとっても重荷で、そこから解放されるべきは女性に限らないというのがここ数十年のフェミニズムでは常識だと思ってたが。ウーマンリブの時代の感覚でいるのかな。

私も性差に抑圧されているのは「女性に限らない」と思ってますよ。後出しではなく、

フェニミズムってなんだ・胸の大きな女の子 - 予期せぬ試行錯誤

にもちょこっと書いてます。で、今回は「ウーマンリブの時代を無かったことにするな」と書いてます。

 

hunglysheep1 TERFの問題が大きくなってきたからだと思う。昔、女性は弱い存在だった、今は強い女性もいてより弱い存在への圧力になってきているのではないか http://www.anlyznews.com/2020/02/blog-post_21.html?m=1

あの声明が出されたのは、TERFの問題が大きくなってきたからだと私も思いますし、歯止めにしたかったのでしょう。

trickart412 (シス)女性ことしか考えず人権や平等という前提を忘れた阿呆がのさばってるから原則の話をしなきゃならんわけじゃん。(シス)女性の話をしたいならまずTERFとかいうノイズ共をなんとかしたらいいんじゃないっすか?

まあ、そういうことです。

preciar な?だからそもそもフェミニズムは、二元論に基づく利己的な利権獲得運動であって、平等なんかに興味ないって言っただろ?/後付けで平等主義だったって歴史修正するから無理が出る

フェミニズムには、ドロドロとした怨念みたいのも、キラキラした理想も清濁まとわりついています。それは認めないといけないんじゃないの、と「歴史的にも~」のくだりで思いました。

kumaponta 男女という二分化自体が様々な属性を無視した大雑把な考え方だったんだよね。現在は様々な属性が声を上げやすくなった。それに伴いフェミニズムが旧世代の古い運動として陳腐化した。価値観のアップデートが必要。

女による女のためのフェミニズムが、女にとって本当に必要でなくなるなら、きっとそれは良い世の中。

 

さらに追記です。ブコメありがとうございます。

mamiske “女性運動としてのフェミニズムを切り捨てるのはズルい”ってのは頑張った女性の権利は他の属性より強く守られるべき、なの?女性の権利だけを求めるような利己的な運動があったことを自省せよ、と読める箇所もある

 「他の属性より強く守られるべき」とは全く思っていません。「良い」フェミニズムから「悪い」フェミニズムを切り捨てるために、過去にあった女性の権利を求めた「利己的」な運動をなかったことにするな、ということです。「すべての人の人権ために」なんて、きれいごとばっかりじゃなく、女のあこがれと怨念を養分としてきたことを、ちゃんと認めようよ、と。

 

ken530000 女性性をことさら強調すると「女性優位社会を目指しているのか?」という反論が出てくると思うので、普遍性を強調するのは良い戦略だと思う。フェミニストに懐疑的だった人たちもこれなら賛成しやすい。

はい。普遍的であるべきですし、これから目指すべき理想と思います。

でも、どうしても「歴史的にも~」という下りがひっかかりました。美辞麗句を使っても「フェミニズム」をブーストさせていたのは「抑圧された女」の自由への切実さと現状への怨念だったと思います。だったら、「これまでの女だけの偏狭なフェニミズムは終わった」としっかり宣言して、各方面から祝福と怨嗟の花火をどっかんどっかん浴びて、供養させてやればよかったのにと思います。

その「フェミニズム」に欠けているもの(旧題その「フェミニズム」は理解できません)


togetter.com

 

女性の裸体について、「女性の身体をモノ化するか否か」それには「コンテクストが重要」という主張を持つフェミニストの方が「女性の身体をモノ化していないのはコレだ」と、乳がん検診を啓発するポスターを自作されています。

これを見た時、たとえサンプルであろうとも、「乳がんの患者さんがこれを見たときどう思うだろう」と悲しい気持ちになりました。私は、「フェミニズム」とは性差に苦しむ人(主に女性)を励まし支えるものだと思っています。でも、自作されたというサンプルは、「乳がん」に関わる女性の中で、一番苦しむ乳がん患者の女性を無視している。そんなに狭い射程をもった「フェミニズム」を私は理解したくありません。

【追記】「理解しなくてけっこう」というツイのアンサーとして「理解できない」とタイトルをつけましたが、それはよくなかった。私は理解してもらいたいから。正確には「その「フェミニズム」に欠けてるもの」とつけるべきでした。

 

サンプルとしてこれを作成されたときに、検査を受けて、乳がんの診断がついた人に対してまったく意識は向けられていなかったんだろう、と思います。少しでも意識が向いたら、絶対に、こんな健康的で乳房を強調した裸体をメインに据えることはなかったと思う。

 

乳がん検診を啓発するポスターを画像で検索してみてください。どれ一つ、裸体の写真を使ったポスターはありません。それは何故かというと、検査を受けることを推奨するだけでなく、検査後のこと、闘病してる方、寛解された方、再発された方…を傷つけたりしないよう、注意を払っているからです。

 

 

乳がん経験者が審査! ピンクリボン大賞審査の裏側

woman.excite.co.jp

 

コンテキストが重要、というなら、なおさら「検診後」の人への配慮が必要です。自分たちのフェミニズムの正しさを理解してもらうようサンプルを作成したのでしょうが、やはり射程の範囲が狭すぎます。

私の尊敬するフェミニスト

ツイフェミミサンドリーではない「本当のフェミニスト」って誰なの?

anond.hatelabo.jp

という問いがあったので、私が尊敬するフェミニストのことを書きます。

 

その先生の名はユウコさん。大学の教授で、私が通う英会話学校の講師もしていました。今から20ウン年前、女性に対し就職の門がせまい中で、英語は、女性が就職を少しでも有利に出来るツールでもありました。クラスメートの多くは女子大生で、よく将来どうしたいか語り合いました。ユウコさんもよく付き合ってくれました。

ユウコさんはフェミニズムの研究者で、フェミニストでした。彼女がなぜフェミニズムの研究を始めたかというと

 「アメリカへ留学した時、理不尽な扱いを受けることが多かった。それは自分が未熟だからなのか。アジア人だから、女性だからではないのか。それをときほぐすために、フェミニズムの世界に入っていった」

 とのことでした。そして、

フェミニズムは不当な、性別によって理不尽な扱いに苦しんでいる人をencourageすること。励ますこと。」

そう言いました。きっぱりと。

私はマスコミ業界でバリバリ働く夢を持っていました。当時はどの業界も、就職は男子が有利でした。マスコミを目指す人たちの勉強会に入っていたんですが、男子の先輩から就職が決まっていって、女子の先輩たちは優秀な人でもなかなか就職が決まりませんでした。

そして、自分の就職活動では、筆記は受かっても面接で落ちまくりました。とあるマスコミ大手では「結婚したら辞める?子ども産んだら?辞めるんでしょ」と聞かれ、広告系の会社では「やる気があったって、しょせん、女性は男性の補助だよ」と言われ。あるかないかもわからない「結婚と出産」が、社会に出る前に横たわる大きな枷でした。

結婚とか出産とか先のことなんてわかんねーよとやさぐれて、就職活動から逃げ出した私を見て、ユウコさんは言いました。

「まず働け」と。

自分の足で立つために、なんでもいい、どんな仕事でもいい。アンタが言う通り、社会に出たら学生の時よりずっと男社会だと実感するだろう、打ちのめされることもあるだろう、それでも

「社会に出る勇気を持て」と。

大学まで教育を受けたんだったら、それを社会に還元しなさい、「女は四年制の大学に行かなくていい」と親戚に言われても、アンタの両親は大学に行かせてくれたんだろう。もちろん、夢の仕事につければいいけど、新卒でそれは難しいかもしれない、だからこそ。

「なんでもいい、どんなことでもいい、とにかく社会に出て働け、そして勉強を続けろ」

その声に押されて、年内に塾業界に就職が決まり。セクハラとかありました。そして2年後、ひょんなことから映像業界にツテを得て、十数年間、むちゃくちゃ大変なことも面白いことも経験させてもらって。あー取引先からのセクハラとかあったなー。大病を得て、塾業界に舞い戻り。今は日々、小・中・高校生と付き合っています。

高校生になると将来がより近くなり、相談がより具体的になります。「大学の費用って高いね」女子の方がお金に敏感です。おそらく親にそう言われているのでしょう。

「学費が高くても行かせてくれるんだから、いっぱい勉強しなね、そして働けw」

女子の方が職業と直結した学部学科を選ぶ傾向があり、堅実な夢をはにかみながら語ってくれます。私はがんばろーとゆるく応援しながら、ユウコさんを思い出します。

 

驚くほど世界は「健常者」のためにつくられている

note.com

 

伊是名夏子さんが「JRで乗車拒否にあった」と記事を出された件で、批判が集まりました。その批判ムーブを受け、車椅子ユーザーのかわさきりょうたさんが当事者としての考えを記事にまとめています。その怒りの深さを、当事者ではないので共有はできなけれど、理解はできます。

おどろくほど、車椅子ユーザーに社会はやさしくないし、そのことに「健常者」は気づかない。私は、父の車椅子介助をして初めて知りました。かわさきさんの怒りの背景を、私の知っている限りで書きたいと思います。

 

父は、両目とも「網膜静脈塞栓症」で網膜を損傷し、ほぼ目が見えないという状態になりました。それでもまだ歩けるし、慣れた道ならと歩いていたのですが、ある日突然、家に一番近い信号の「音のシグナル」が鳴らなくなりました。「うるさい」と苦情があって、スクランブル交差点にしたことを機に、やめたのだそうです。鳴らなくなったことにしばらく経ってから気が付いて、どうやって渡っているの?と聞いたら、「人の気配で渡っている。人が動き出したら、自分も渡る」というので、あわてて外出には誰かがつきそう、いなければ家に居てもらう、という形にしました。

それでも、病院には連れて行かなければなりません。足腰や心臓が弱くなっていることもあり、休み休みで歩くには相当な時間がかかる。車椅子を利用することにしました。

はじめて、父を手押しの車椅子に乗せ移動したとき、こんなにも移動が大変なんだと初めて知りました。まず、5センチほどの段差でも、前から乗り上げることができない。いちいち後ろ向きにして、車輪を乗り上げさせなければなりません。そして、こうした段差は歩道のいたる所にあるのです!

後ろを向いて車椅子を上げていると、背後から自転車がやってきます。すれちがいざま「あぶないっ」といわれたり、舌打ちをされたりします。「すみません」と謝ります。

病院に着きます。待合室は狭いので、車椅子から降りてほしい、と勧められた椅子は丸椅子。目のせいでバランスが取れないから、普通の椅子にしてほしいと「すみません」とお願いします。父を連れて外出すると、なんだかすみません、すみません、ばかり言ってる感じ。私は時々でしたけど、これが毎日のことだったら?

私は、父を病院に連れて行く前に、どの道を通ったら段差が少ないか歩いて調べてみました。ほんの数百メートル先の病院に行くのに、小さいけれども乗り越えられない段差がこんなにあるのか、と私は初めて気が付きました。

手術した大学病院に行くためには電車に乗らなければいけません。けれども…最寄りの駅にはエレベーターがありません。いえ、駅構内にはエレベーターがあるのです。ただ、駅にたどりつくまでに1階分上がらなければならないのですが、階段とエスカレーターしかないのです!

父は、全く歩けなかったわけではないので、車椅子を折りたたんで、父の手を引いてエスカレーターを上がればいいのでしょうが。上りはそれでもいいのですが(いや、重いし危ないし正直むりむり)、下りのエスカレーターがないのです。危ないのは下りなのです。なぜ下りのエスカレーターがないのでしょう?

病院の最寄り駅にも、駅構内にエレベーターはあるのですが、下に降りるのには、階段しかありません。下へ降りるのに、階段しかない駅に敏感になりました。けっこうあるものなんですね。気が付きませんでした。

そんなわけで、電車での移動はあきらめました。タクシー移動は往復1万円近くかかります。10%の障害者割引はありますけど、スズメの涙です。仕方ないので、地元の眼科クリニックに差し戻してもらいました。

仕方ない、仕方ない。車いすに乗る人は、介助の手が十分にない人は、外出をこうして諦めていきます。だけど、これは、車椅子だけの問題ではないでしょう。さまざまな障がいを持つ人だけの問題でもないのです。

人は誰でも年をとります。年をとったら出来ないことも増えていきます。これは、「特別な人」の問題ではなく、私たち自身の問題なのです。

 

母は満州からの引揚者。残留孤児の一歩手前だった。

80年代後半からつるんで暴れ出した半ぐれ集団「怒羅権」は、中国残留孤児の2世、3世。文春で、彼らが犯した暴力について、聞き取り記事が出ていた。暴力は恐怖なので、深くは読みこんでないけれど、別記事でバックグラウンドが書かれていたのを読んで、彼らは「かもしれない」隣人だった、と思った。

friday.kodansha.co.jp

 

私の母は、先の大戦で負けてから満州から引き揚げてきた。もう75年ほど前のこと。2歳か3歳で、今の子たちより足は丈夫だったかもしれないが、屋根の無い列車に乗るまで歩いたという。10日だったかもしれない。1か月だったかもしれない。とにかく長く歩いて、しゃがみこむと父親に「おいていくぞ」と怒鳴られた。兄妹が多く乳児もいたので親は構っていられなかった。近所のお姉さんが手を引いてくれた。道端には、親とはぐれた子どもたちがしゃがんでいた。「もし、おねえさんに手を離されたら、私は日本に帰ってこれなかった」残留孤児のテレビ番組を見ると母はよく涙を流した。

満州国は、日本が支配していた。母たちは、何軒か集まった家を囲む門番がいるような家で暮らしていた。日本が負けて1年ほど、その地に留め置かれた。ソ連軍がやってきて、男たちは連れて行かれた。祖父は軍属だったので、その情報を早く仕入れて、知人の家の屋根に隠れたという。「色々問題のあるおじいちゃんだったけど。もし男手がなかったら、家族は日本に帰ってこれなかったかもしれない」伯母がそう言っていた。

家を出るとすぐに、知り合いだった中国人たちが、家の中のものを持ち出した。日本人が中国を支配していたのが、ひっくり返ったのだから、強奪や乱暴も当たり前にあったという。母の手を引いてくれたお姉さんは、髪を切って顔を黒く墨で塗っていた。一緒に歩いていた女の人たちは、一様に顔に墨を塗っていたという。

朝鮮半島のどこかの港から、GHQが出した船に乗って帰ってきた。その船がGHQが出した最後の便だったそうだ。船の中の衛生状態は最悪で、赤痢が発生したという。佐世保の港が見えるのに、船は沖に留め置かれた。その間、1つ下の妹が、「お肉が食べたい」と言って死んだ。

関東軍の家族、銀行の家族は終戦前にさっさと引き揚げた、私たちはいつまでも動けなかった、もっと早く帰れたら、妹も死ななくてすんだかもしれない」

母は恨み言をいいながらテレビを見た。それでも、母は満州の首都のハルピンからの引き揚げだった。もっと奥地に入植した満蒙開拓団の人たちは、もっとずっと過酷だったそうだ。開拓団の中で亡くなった人は約8万人と言われている。

そんなこともあって、母は「国のことは信じていない。どうせ何かあったら自分たちなんか放り出される」優遇されている人を「上級国民」って言うんだって、と話すと「何を今さら」と鼻で笑う。「老害といわれた」と被害者面をした森元オリンピックの人を見て、「元気だねーどんないいもの食べて育ったんだろうね」と、どっこいしょと苦労しながら立ち上がった。もう杖なしでは歩けない

満州国が建国されたのは1932年だよ」と塾の生徒に教えながら、母は満州国から帰って来たんだ、と少しだけ話す。「へー、歴史の人なんだ、すごいね」と12歳の生徒たちはいう。私はもうアラフィフだ。そして、「怒羅権」の創設メンバーと同年代だ。

 

【新型コロナ】医療に協力したら医療を守れる

anond.hatelabo.jp

新型コロナで「高齢者をまもるために若者が犠牲になるとは何事か」という言葉を聞くたびに、哀しみと無力感におそわれます。私の父は83歳です。脳梗塞の再発で昨年の12月に、地域の総合病院に入院しました。医師は「大変きびしい状況です。もう、看取りはこの病院になるでしょう」そして私の目をみてきっぱりと「新型コロナのために面会はできません。それでもいいですか?」と聞きました。

つまり、私たち家族が次に父と会えるのは、父が息を引き取る時になります。

そして、さらに言われました。「ご家族と会うための延命処置はしません。人工呼吸器や心臓マッサージはしません。よかったらサインをしてください」

つまり、息を引き取るときに、たとえ呼ばれたとしても間に合わないことがあるということです。

「心臓マッサージをすると、肋骨がぼきぼきと折れます」「人工呼吸器をつけても病気の改善が見込めるわけではありません」そんな風に説明され、サインをしました。

人工呼吸器をつけない、ことは、フォーマットが出来ているので、新型コロナ以前からも高齢者の入院では、最初に求められることなのでしょう。医療費の抑制ということもあるのでしょうが、やはり機材などの「トリアージ」はすでに進んでいるのかもしれない。そのことに対して、仕方がないとは思います。

けれど、やはり父に会いたいです。どうしても会えないか食い下がると、看護師さんにきっぱりとこう言われました。

「小さい子どもの患者さんも、お母さんに会えないんですよ」

ああ、それは。それは仕方がない。私は心にふたをしました。嘘です。泣きながら今これを書いています。

なぜ、看取りまで面会できないことに同意したか。それは、地域の医療をまもるためです。父の入院している病院は、民間の総合病院です。公立の急性期病院の次に大きな病院です。新型コロナウィルスの対応はしていません。

ここが地域医療の砦だからです。新型コロナが流行する以前でも、私の市で救急車を呼ぶと、入院できる病院は、まずすぐには見つかりません。病気や症状にもよるのでしょうが、4件あたってそれでも見つからない時に、公立の病院かこの病院につながります。千葉県の中堅都市の話です。

私自身の話をします。3年ほど前、数年ぶりに職場でてんかんの発作を起こして、発作後も全身が麻痺して動かなかったため、救急車が呼ばれました。救急車はわりと早く来てくれましたが、ガンマ線の治療をした民間病院、他科のカルテのある民間病院、現在父が入院している民間病院、もう1つの民間病院に全て断られました。そしてようやく、公立の急性期病院が「入院をしないのであれば」という条件がだされ受け入れてもらえました。救急の方は、「意識はあるが全身麻痺して動かない」と、退院は様子を見て欲しい、と食い下がってくれました。様子は見るけれど、やはり入院はできない、ベッドがないから、と言われました。

入院し、検査・薬の投与をして約3時間ほど経った頃。体の麻痺がとれてきたので、夜中の2時です、帰宅することになりました。正直、まだ発作がおきそうなぞわぞわ感がしたのですが、「入院はできない」と言われていたので。「もう大丈夫です」と言って、お会計へ向かいました。そして窓口で、お会計をしている時、また。倒れました。

今度は立っていたところから、まっすぐ後ろに倒れたそうです。気が付いたら、ベッドの上でした。ナースステーションのすぐ横にある部屋で、病棟とは少し違うようでした。バターンと大きな音がして飛んでいったよ、と看護師さんが話してくれました。そして、朝、「かかりつけ(都内の大学病院)にすぐ行ってください」と医療情報を渡され、退院しました。

新型コロナが流行る前から、地域の病院は、とくに救急はひっ迫しているんです。そして、新型コロナのクラスタは、本当に簡単に発生します。先月、隣の市の中核となる急性期病院で発生しました。高校でも発生しました。市中感染がどんどん広がり、これまで、市のホームページで発表されていた症例の項目のほとんどが「調査中」となっています。これまでは2日前の行動や感染経路が記載されていました。整理に追われているのでしょう。

 

そして一度、医療の輪っかの中にうまく入れることができたら、日本の医療は手厚いです。

ponjpi.hatenablog.com

たぶん、私は日本に生まれていなかったら、アメリカのような国に生まれていたら、自己破産をしていたでしょう。

10年前の脳腫瘍は、本当に「まさか」のできごとでした。こんな「まさか」のように、誰にでも、病気や怪我になる可能性はあります。そのとき、新型コロナに病床が取られ、それだけでなく、CTなどの検査機器が取られていたら、「当たり前」だった医療が受けられなくなります。

医療は、本来、経済活動と対立するものではないと思います。新型コロナの感染拡大を一刻もしずめることが、経済活動を復活させる一番の手段ではないでしょうか。自粛、自粛はうっとおしいですが、「身の周りの人をまもるため」「自分の地域をまもるため」それがひいては「自分のため」になるんではないかと思います。

懺悔のために雲仙は何度も「危険な場所」扱いされる

雲仙普賢岳が噴火して、今年で30年。節目の年の度に、「雲仙は危険な場所」というイメージが醸成される。そしてまた、「取材に市民を巻き込んだ」という懺悔記事がでた。私はこういう記事に怒りを感じる。腹が立つのでリンクはしません。

と思ったけど、忘れっぽいので備忘としてつけます。

過熱報道で「市民を殺した」悔やむ元記者 雲仙・普賢岳噴火から30年 | 47NEWS

 

母が島原出身で、自分も映像の仕事で雲仙を取材した。噴火から10年、今から20年前だ。雲仙の四季や地獄の歴史を紹介するため、現地に何度も足を運んだ。

 

雲仙は、もちろん温泉で有名。メインの「温泉地獄」は、遊歩道があってゴツゴツとした岩場に臭気と蒸気が立ち上る。風向き次第で、結構な熱い空気に煽られる。東の小浜から中央の雲仙、西の島原へ向かって、源泉の温度が80度、60度、20度と下がっていくのが不思議だった。

それぞれの旅館に温泉が引かれているけど、足湯や公共の温泉もあった。良かったのが、少し離れたところにある小地獄。白濁した硫黄泉でとろりとしている。お高いホテルには泊まれなかったけど、打ち合わせで「雲仙観光ホテル」に入ったことがある。昭和初期に建てられた洋風の外観、飴色のレトロな内装、ちょっと贅沢な気分に浸れる。

 

そして、仁田峠のロープウェーで普賢岳にのぼると、噴火してできた平成新山がすぐそこに。ああ、こんなに近くで噴火して、そして今や観光資源の1つになっているとは、感慨ぶかかった。

 

母のふるさとで仕事ができることが誇らしかった。取材の下見に、島原の足湯をめぐっていたら、世間話をした相手が、なんと母や伯母と同じバスで同じ学校に通う人だった。

 

でも、東京に帰ると、もうすっかり観光地として復活しているのに、「雲仙ってまだ危ないんでしょう?」と言われる。マスメディアの力ってすごい。地元の人たちの観光PRなんて、それを覆す力はないし、なかなか届かない。

 

たぶん、当時の「危ない」映像だけ流されて、「まだ危険」といわれる、そういう被災地ってあると思う。

 

強引な取材だった、タクシーの運転手さんを危ないところで待たせて、死なせてしまったという懺悔。今も「警戒地区になっている」(そりゃそういう場所もあるさ)と危険なイメージだけ流して終わりだと、ああ、またかと思う。もうずっと前から、雲仙は復活しています。島原、雲仙へいく路線バスが減って、さびれつつあるけども。