ガセネッタ&シモネッタ

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

ガセネッタ&(と)シモネッタ (文春文庫)

日ロ同時通訳者、米原万里氏のエッセイ集。1995年〜2000年に雑誌等に書かれたコラム、エッセイ、対談などを収録。外国語と日本語の間に立って言葉の瞬発力を存分に発揮し、同時通訳という舞台で活躍する様子や、言葉についての気づきがイキイキとつづられています。下ネタやダジャレの話が勢いよく飛び出ます。この本はとてもバラエティーに富んでいてまとめるのが難しいです。以下、個人的な関心を備忘として記します。

私がとくに関心を持ったのは、2つの対談でした。英文学者・柳瀬尚樹さんとの対談「翻訳と通訳と辞書」(あるいは言葉に対する愛情について)という辞書談義。翻訳者と通訳者は、それぞれ訳をするのに与えられる時間が異なります。通訳には、即時性と意味の伝達が優先し、翻訳には、意味の伝達のみならず解釈と作品としての完成度が求められる…その違いから、辞書への期待・要求も異なる。柳瀬さんは、完ぺきな訳への志向(辞書は一長一短ではなく一長一長)、米原さんはわからない語を一語でもひければ元がとれる、と。作業中に辞書を引けるわけでないので、自分の辞書を作ってゆく、言葉を体に叩き込んでゆく…そうです。その気迫が、とっても素敵です(笑)辞書の例文についてはお二方とも意見が一致していました。

柳瀬:だから、辞書のあるべき姿っていうのは、意味を編者が決めることではなくて、できるだけ多くの実際の例文を集めて、そこから意味を浮かび上がらせるというものでしょう。

私も賛成です〜。日本語の辞書を引くときも、例文が多い方が意味だけでなく「言葉の使い方」をつかみやすいです。ロシア語も英語のオックスフォードの辞書でも文学作品から例文を引用しているそうです。いいですね。日本の辞書でも、古語は大抵、文学作品からの引用ですね。

劇作家の永井愛さんとの対談は、「変わる日本語、変わるか日本」というテーマ。二人の共通している点は、口語すなわち話し言葉を扱うことです。話し言葉の変遷、男言葉・女言葉、外来語の受容、日本の言葉のあいまい性について語り合っています。個人的には、「女言葉はサバイバルできるか」というトピックが面白かった。以下は、男・女言葉に関する永井さんの指摘。すごく興味深いので、長く引用しちゃいます。

永井:わたしたちは、ですます体で話していれば、男と女に言葉の差はそれほどありませんから、職場で丁寧語を話している限りはいいんですが、恋人や夫婦など親しい間柄では別でしょう。たとえば、二人で出かけようとするとき、「おい、早くしろよ」という男性の言葉に対して女性が「ちょっと待ってろよ」と答えたら違和感がある。男性が命令形を使っているのに、女性は「待ってよ」とお願いの形で応えなければいけない。わたしたちは、「早くしろよ」「待ってよ」で対等な男女関係だと思ってしまいがちですが、実はここに言語構造に入り込んでしまった差別があるんだと思うんです。こういう言葉を使いながら、男性と対等になろうとしているんだから現代の女性はたいへんですよ。だいたい現代の女言葉の基本は、昔の遊女の言葉のようですね。つまり、遊女がお客さんを待遇するときに使った尊敬語。これが日本の伝統だと言える言葉なのか、わたしは疑問に思ってしまうのです。
米原:わたしは、それも含めて日本が背負ってきた歴史なのだから、日本語に女言葉もあっていいと思うんです。逆に考えれば、使う言葉によって反対の性を演じられるというのは面白いですよね。たとえば、女になりたい男性が女言葉を使うことから入れる。逆に女の人が男言葉を使うことによって非常に荒々しく決断力に富んだ人格を演じられる。言葉で性を乗り越えられるということは、生物的な性よりも社会的な性の方が強いということでしょう。日本語はそれだけ幅の広い言葉だと思うんです。

なんてシゲキ的な対話でしょう♪なるほど、と思ったのは丁寧語には男女差はあまりないという点です。私的な関係にこそ、男言葉と女言葉がある。
それといわゆる「動詞の命令形」について。命令形が丁寧になると依頼の意味を帯びます。そうか、女言葉の方が丁寧なんだ。単純命令の方が強制力を持つようにみえますが、丁寧な表現の方が実は怖くインケンに、隠微に指図することもできるのかな〜と思いました。誰が、どんな立場でどんな関係性において言葉を使うかにも関わってくるので一概にはいえないですけど、ね。
私は、万里さんの意見の方に近くって、日本語に女言葉があってもいい、というか、言葉遣いに対して何らかの強制があるのは生理的にイヤなんです。でも、永井さんの女言葉の命令形についての指摘も、はっとしました。

米原さんと、様々な「言葉のプロ」の方々との対談集があったらいいのに…今となってはかなわぬ望みを持っています。