テレジーンの町

テレジーンの「町」は、静かでした。こじんまりとした、黄色やピンクの壁でできた建物が並び、書き割りみたいな印象を持ちました。もう少し観光地ぽい雰囲気を予想していたのですが、食事をする場所を探すのも一苦労でした。

テレジーンの「町」は、ユダヤ人のゲットー=他収容所の「受け入れ」と「中継」点として、1941年につくられたそうです。最初は、ナチ侵攻後チェコモラビア・ボヘミア地方のユダヤ人を集め、1942年からドイツ・オーストリアから、その後はオランダ・デンマークハンガリースロバキアからも集められました。トータルで約15万5千人が通過し、そのうち約11万8千人の人が亡くなったそうです。(『TEREZIN Guide to the Permanent Exhibition of the Ghetto Museum in TEREZIN』より。以下同)

ファサードヘブライ語で何か書かれている黄色い建物が、「ゲットーミュージアム」。「Terezin in the "Final Solution of the Jewish Question"1941-1945」というテーマの展示でした。この、"Final Solution of the Jewish Question"は英訳されたナチのスローガンで、展示パネルの中で目にするたびに、胃が重くなるような嫌な気持ちになりました。かなり寒い日で、そのせいもあったのですが、お腹が痛くなりました。

1階は、このゲットーで暮らした子供たちに関する展示でした。亡くなった子の名前が壁一面にずらっと並んでいました。廊下に子供達が描いた絵が展示されていたのですが、ボードに「survived」と書かれた子はわずかで、ほとんどがアウシュビッツに送られ、死亡していました。

15才までの子ども約1万500人がテレジーンに集められたそうです。約400人の子がテレジーンで亡くなり、約7500人が東の「絶滅収容所」で亡くなった…とこれまでの調査でわかったとのことです。なお博物館の建物は、当時、10-15才の少年たちが暮らす寮だったそうです。そこでは、同時に収容された科学者や芸術家、教育者などにより秘密裏に授業が行われ、また彼ら独自の活動も行い、ゲットー内の若者たちの活動の拠点になりました。

2階に上がると、ポスターの貼られた円筒がゆっくりと回っていました。ポスターはドイツ語やチェコ語で書かれていたので、小春ちゃんに読んでもらいました。「ユダヤ人は8時〜9時まで」など。ナチ占領地では、郵便局や銀行など生活に必要な窓口がユダヤ人だけ制限されていたそうです。さぞかし不便で、屈辱的であったろうと思いました。2階の廊下は、ナチ時代の反ユダヤスローガンや政策に関するものでした。ターゲットを選り分け、攻撃する…多勢の暴力に吐き気がしました。ここまであからさまだったら、良識とか良心とかの小さな声はかき消されてしまうんだろうな…と無力感と脱力感で一杯になりました。

テレジーンは「受け入れ」「中継」そして「宣伝用」の役割がありました。ナチによる「文化的ユダヤ人居住区」管理のプロパガンダです。地階には立派なシアターがあって、短い映像を小春ちゃんとたった二人で見ました。それは、子供たちが遊び、大人たちが観劇をし、スポーツを観戦するなど、非常にいきいきとした「ユダヤ人居住区」の人々の映像でした。ナチが当時、宣伝用に作成したのです。しかし、ナレーションはたんたんと、1943年2月に発った1000人のうち生き残ったのは3人、1934年5月に発った1000人のうち生き残ったのは1人…と数え上げていくのです。ふかふかな椅子に腰掛けた私たちは、シアターが明るくなっても身動きができませんでした。

展示パネルの中で、ワタシにとって一番インパクトがあった写真は、ユダヤ人の押収された家具や食器が山積みにされている写真でした。モノクロにもかかわらず、品の良さがわかります。ユダヤ人の財産は没収され、戸口はシールドされ、そして人は収容されたのでした。普通の生活から強制的に引きはがされたこと、そのあまりの不条理さをはじめて実感したように思います。

最初「町」が書き割りのように見えたのは、この「町」が持っている不条理さのせいかもしれません。

最後に、テレジーンから他の収容所…多くは死へ至る絶滅収容所へむかった列車の線路を見に行きました。「町」の外れにある線路は、一部分だけが残り、そしてその行く先は消えていました。