テレジーン小要塞

プラハの北方約50km先のテレジーンという町へ、小春ちゃんの車で行きました。車内でテレジーンについての簡単な説明を受けました。テレジーンは二つのパートに分かれ、小要塞には「収容所」、そこから程ないところに「町」がありユダヤ人が収容され、作曲家など芸術家も多くいて過酷な環境にも関わらず文化的な活動が行われていたこと、それがナチの宣伝にも使われていたということ、などを聞きました。

でもワタシは、よくわかっていなかったのです。

まず、ゲットー・強制収容所絶滅収容所の区別を記したサイトをご紹介します。ワタシは、ゲットーも強制収容所絶滅収容所もひっくるめ「収容所」という日本語のガイドブックと、用語がさまざまに変わる展示パネルの英語によって非常に混乱しましたので。

ゲットーの定義:大桑千花氏
http://www.happano.org/pages/fragments/40_refe1.html

テレジーンは、オーストリア・ハンガリー帝国時代の要塞で、名前はマリア・テレジアに由来するそうです。小要塞と大要塞から成り、最初に行ったのは小要塞の方です。ここは、1940年から主に政治犯を収容したそうです。

並木道の脇には国民墓地があり、チェス盤を模したという門をくぐるとチケットカウンタがあり、説明書を渡されます。最初に1940-1945についての展示を見てから、到着・荷物検査・収容施設・絞首台・銃殺場などを見ました。展示は、ナチの拡大とヨーロッパ戦線の推移から始まります。ホロコーストに関する記述は少なく、むしろ、チェコ国内への侵攻、収容所からいかに労働力を調達するか、所内の環境がいかに劣悪であったか、という点が印象に残りました。つまり、妙に淡々として、悲惨さ残酷さを訴求するような語り口はあまり見受けられなかったのです。

所内の薄暗い部屋には、壁一面に3段ベッドのようなものがしつらえてありました。1人で長々と横になれるわけもなく、すし詰め状態で寝起きしていたらしいです。寒い日でもあったのですが、内部は底冷えして、冬を越すのは大変だったろうな、と思いました。ストーブはあったのですが、どれだけ足しになっただろうか、と思いました。

ワタシたちは段々と無口になり、小要塞の中にもレストランがあったのですが、さすがにそこで昼ごはんは食べられませんでした。
「町」でご飯を食べ見学をすることにしました。「町」でどんなことが行われていたかも知らずに。

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「収容所」をイメージとしての「アウシュビッツ」と混同していたバカモノでした。以下、自省を込めて付記します。
帰国してからショップで購入した資料を読み直してみました。1939年にナチによるチェコスロバキアへの支配が始まり、国内の抵抗運動が高まると、ナチの息のかかった秘密警察は片っ端からレジスタンスを逮捕してゆきました。その数が増えていったので、1940年にテレジーンの小要塞に刑務所を作ったそうです。1943年までは収容人数も少なく、比較的「mild」だったそうですが、43年以降、収容人数が飛躍的に増え、食糧事情は悪化しました。なんと、1945年には一日に配給される食糧が270gだったそうです。

1940年〜45年の間に収容された人数は男性27000人、女性5000人。主にチェコ国内の政治犯レジスタンスの二大潮流である民主と共産主義の人たちでした。またチェコ軍のレジスタンスもいました。すなわち、左右中道ひっくるめてナチに抵抗したものの、国内の裏切り者であるゲシュタポに捕らえられたのですね。また学生さんのグループも捕らえられ、つまり潜在的な抵抗の芽を叩き潰す、という役割がこのテレジーンの「刑務所」にはあったそうです。レジスタンスに参加したユダヤ人1500人もこの「刑務所」に収容されたそうです。

資料:The Small Fortress TEREZIN 1940-1945
資料には、開館の由来・ナチの侵攻・政治刑務所としての側面・労働キャンプとしての側面・他所へ移動するまでの通過点としての側面、などが書かれています。

(プチ旅行に出ますので、オフライン状態になりますです)