勝谷誠彦さんに気圧された学生時代のワタシ

勝谷誠彦さんが亡くなった。彼にとっては、風の前のチリにも等しいが、私にとっては社会の入口で出会った人で、「マスコミってこんな人がいるところなんだ」と思わせてくれた方なので、ご冥福を祈りつつ思い出を書いてみる。

 

大学生の夏、私はたまたまソ連に旅行をして、たまたまクーデターに遭遇した。たまたま新聞社で作文コンクールが開催され、応募してみたら、賞がもらえた。そうしたら大学の先生が、「文章書きたい?」と聞いてくれて、「それだったら」と紹介してくれたのが勝谷さんだった。

 

その頃、勝谷さんは『週刊文春』でブイブイ飛ばしてた人だった。先生が電話するとすぐに会ってくれた。とあるムック本に書くことを提案してくれ、うなずくと、誰かに電話をして「自由に書いてくれていいって。写真ある?それもつけて」と。私はうなずくだけで、あっという間に原稿用紙7枚の仕事がもらえた。これ以降、こんなに労せず仕事をいただけたことは一度もない。

 

そして、他の編プロの人たちと共に鯨料理屋でごちそうになった。私が朝日新聞ライクな学生だと知っていて、9条の議論やフェミに関する話題を振られた。私の答えに対し、鼻先で笑った。怒涛のように自説を述べ立てた。そして、

 

「誰かが言ってることを書いてるだけじゃ、文章で飯食えないよ」「きれいな所できれいなこと書いてるだけじゃ誰も読まないし、売れない」「その覚悟はなさそうだなあ」

 

そんなことを言われた。ほかにも、お酒を飲みながら、けっこうキツイことを言われた。帰り道、酔いが回って鯨を吐いた。もう会うもんか、と思った。

 

とはいえ、出版社から送られてきた、きちんと製本された本は、とても嬉しく。加えて原稿料までもらえるそうなので、何度も逡巡し、ためらいながらお礼の電話をした。そうしたら開口一番「原稿料いくらだった?」と聞かれた。5万円だそうです、と答えると「ちょっと少ないな、写真も出したんでしょ?電話しとくから」と言って、あっという間に電話を切った。

 

忘れた頃に、編集の人から電話が入り、振込先を聞かれた。その時、「写真代も足しておきましたから」と。記帳したら、2万円プラスされ、7万円も入っていた。嫌われたと思っていたのに、なんて面倒見の良い人なんだ、と思った。調子に乗ってお礼の電話をした。その際、ほかの原稿を見てもらえないか、と尋ねると、

 

「今ね、悪いけど、自分の方にも火がついて、それどころじゃないんだよね。」

と早口で言われて、さっと電話を切られた。なんだか、恥ずかしいような、いたたまれない気持ちになった。以来、連絡しづらくて、そのままになった。

 

大学の先生に「勝谷とまだつながってる?」と聞かれ、もじもじした。「あいつキョウレツでも面倒見はいいんだけどねー。無理だったかー」とがっかりされてしまった。主義主張がどうとかいうより、自分の押しの足りなさと、変なプライドがあいまって食いついていけなかった。

 

 

学生だった私は、他人に電話をかけるのにも勇気がいった。学生の頃からライターの仕事をバリバリされていた勝谷さんにとって、私はぬるい学生だった。それでも、酒を飲みながら機関銃のように「左巻き」を罵倒し、そのくせ「左巻き」の私にさっと仕事をおぜん立てして、原稿料の交渉までしてくれた。たぶん、他にも色んな人に、手を貸していたんじゃないかと思う。少しだけ勝谷さんとすれちがった私は、そう思う。