蕪村は「不遇」だったのか
「若冲は見たいけど、蕪村は興味なーい」と知人に言われ少し悲しく思ったので、蕪村についてちょっと書いてみたいと思います。
私は蕪村の、特に俳画にほれぼれとしましたよ。
近代の詩人、萩原朔太郎は、蕪村の俳句は同時代には評価されず「不遇」であったと書いています。(郷愁の詩人「与謝蕪村」萩原朔太郎著 岩波文庫)
のち明治に入って正岡子規に「発見」されてその「写実的な技法」だけが評価されたのは、ちょっと違うんじゃないか、と朔太郎はちょっと怒っています。
蕪村の真価は「ポエジイ」にあった。けして「蕪村は単なる写生主義者や単なる技巧的スケッチ作家ではない」と。正岡子規ふざけんな、と。
蕪村のポエジイとはすなわち「彼の魂の故郷に対する「郷愁」であり、昔々しきりに思う、子守唄の哀切な思慕であった」と。
今回の展覧会で私が足を止め、引き帰し、また足を止めた作品群は「俳画」という、俳句と絵をミックスさせたものでした。たとえば、
「学問や 尻からぬける ほたるかな」
という句と、小机の前に座ってうとうとしている人を墨で描いた一幅にみるように、彼の描く墨絵には稚気があふれています。
また、芭蕉を敬愛する蕪村は『奥の細道』を筆写し、それに挿絵を加え、淡く彩色しています。その丸みを帯びた筆跡や挿絵に自由さと明るさを感じました。東北へ旅に出たくなりました。
さて、掲題の蕪村は不遇であったか、という件ですが、貧窮であったかという意味であれば違うようです。俳諧と絵画、二つの分野で活躍し、京都での晩年は門人たちに囲まれ、裕福な商人たちがその絵を買い求めたそうです。展示では、京都での豊かな交遊関係を垣間見ることができます。