ルビコン

『内乱記』は『ガリア戦記』とちがい、全編を流れる主調音は、敵に対するカエサルの軽蔑である。憎悪も怨念も復讐心も、自分は相手よりは優れていると思えば超越できる。憎悪や怨念や復讐欲は、軽蔑に席をゆずる。このカエサルが、唯一軽蔑したいと思いながらもできなかった相手が、ラビエヌスではなかったか。
塩野七生著『ローマ人の物語10 ユリウス・カエサル ルビコン以前・下』新潮文庫

ローマ人の物語』を読み続けています。ようやく、カエサルが「ルビコン川」を渡ります。ルビコン川とは現在の北イタリアにある、当時ローマと属州を隔てていた川です。カエサルは、属州総督という肩書きで、ガリア(現在のフランス〜ベネルクス〜ドイツ西方などの地域)地方をローマの属州としてゆきます。

華々しい戦功。しかし、元老院派はカエサルの権力掌握・独裁化傾向に危機感を覚え、反カエサルの動きを強め、彼の権限をはぎとろうとします。すなわち武装を解除して属州総督を辞任せよ、と。公職から降りた人物は訴追を受けずにすむ特権をなくします。そこから一気にカエサルの権威失墜を元老院派は狙っているのです。「ルビコン川」をカエサルが渡るとは、元老院の最終勧告を無視し、国法にそむき、そして内乱を始める一里塚になるのでした。

冒頭の「ラビエヌス」は、7年におよぶガリアでの戦でカエサルの副将をつとめた人物です。平民出身で「護民官」となり、カエサルを檜舞台に押し上げた縁の下の力持ちな人でした。いわば、側近中の側近です。その頼りになる男が、ルビコンを渡る前に、離脱―裏切りを―したのです。それはなぜなのか、その理由はローマという国がどんな人的システム(政治・社会システム)で成り立ち動いてきたのか、ということに通じるのです…文庫本で10巻分叙述されてきたのは、このルビコンのためにあったのではないかと鳥肌がたちました。

歴史を、人物中心に物語ることの面白さ、ほんとうに面白いと心底思いました。

ルビコン川の岸に立ったカエサルは、それをすぐには渡ろうとはしなかった。しばらくの間、無言で川岸に立ちつくしていた。従う第十三軍団の兵士たちも、無言で彼らの最高司令官の背を見つめる。ようやく振り返ったカエサルは、近くに控える幕僚たちに言った。

「ここを越えれば、人間世界の悲惨。越えなければ、わが破滅」

そしてすぐ、自分を見つめる兵士たちに向い、迷いを振り切るかのように大声で叫んだ。

「進もう、神々の待つところへ、われわれを侮辱した敵の待つところへ、賽は投げられた!」

塩野七生著『ローマ人の物語10 ユリウス・カエサル ルビコン以前・下』新潮文庫